大山日出男プロフィール ~詳しい版
音楽との出会いは早かったかもしれません。
しかし小学校低学年の頃は全く自覚がありませんでした。
とにかく楽器が何もできないばかりか、音楽にコンプレックスがあったぐらいです。
3年生のときに学校の音楽の授業でリコーダーが導入されましたが、これすらも始めはまるで駄目でした。
よく記憶にはないのですがよほど悔しかったらしく、沢山練習しているうちにクラスでは一番上手くなりました。
そしてそのうち楽譜の読み方も覚えて、器楽の教科書の未知のメロディーもリコーダーで
演奏できるようになっていきました。もちろん多分にいい加減だったとは思います。
高学年に移るにつれ管楽器に強い興味を持つようになり、教科書の管楽器の絵を
(当時は写真じゃありませんでした)眺めてはため息をついていました。
僕の父親は映画館に勤めていたこともあってジャズも好きでした。
それで僕にクラリネットを買い与えるという決定的な間違い? を犯してしまいます。
1967年(11歳)
父はクラリネットがバラバラの状態で紙袋に入れて持ってきてくれました。
楽器のケースの存在などは知りませんでしたから僕はそれが普通だと思っていました。
ところが全く音が出ません。よい音が出ないのではなく全く出ないのです。
父は首を振りながら吹けばよいんじゃないか?などとアドヴァイスをしてくれましたが、
それは尺八の場合ということぐらいは当時の僕でも知っていました。
家にあったベニー・グッドマンのレコードみたいな音を出すことを諦めきれずに
一週間ほど練習して万策尽きてしまいました。
最後の手段とばかり楽器屋にクラリネットの教則本を買いに行きました。
僕は一つ大事なアイテムの存在を知らなかったのです。
本には「リードをマウスピースに固定して・・・・」と書かれてありました。
つまりリードを付けなきゃいけないことも知りませんでした。!!
1968年(12歳)~
入った中学には吹奏学部がありませんでした。3年間の独習を余儀なくされます。
しかし元々家にあったあったグッドマンや鈴木章治のレコードの他に
ジャズメッセンジャーズの「キャラバン」、キャノンボールの「サムシング・エルス」、
それからロリンズ、モンク、MJQ、ケニー・ドーハム、マイルス・デイヴィスなんかを聴いていました。
レコードを聴かせるジャズ喫茶に出入りするようにもなっていきました。
1971年(15歳)~
高校入学と同時に、ついに待望のブラスバンド部に入りました。
しかしクラリネットは定員オーバーでバリトンサックスに回されます。
しばらくはこの楽器がサキソフォンの一種であるということを知りませんでした。
半年ほどでアルトサックスに転向してからは、すっかりハマッてしまいました。
けれども名門のブラスバンドだったために、ここでも初心者に近い僕は下手なほうでした。
完全に下手の横好き状態です。僕は本当にそれは未だに続いていると思っています。
進学校でもあったために成績は下がり、下から数えた方が早くなってしまいました。
プロになれるなど考えも及びませんでしたから、音楽の先生を目指しました。
そのため高校三年の時からピアノを習い始めました。そんなことですからますます成績は下がり、
もう半分やけくそみたいな感じで音大受験を決意しました。
1974年(18歳)
国立音大と東京芸大を受験しましたが、もちろん落ちました。
たぶん最下位だったと確信しています。そんなに甘いものではありません。
当事の僕はスケールすらロクに吹けてはいませんでしたから。
そこで、地方から東京に出てきて浪人生活が始まりました。
始めてプロのサキソフォンの先生に師事しました。
富岡和男氏、現東京芸大サックス科主任講師です。
徹底的な奏法の改善をされました。僕は富岡先生には演奏家としての「華」を学んだように思っています。
この一年はジャズを聴くことすら我慢しました。
1975年(19歳)~
東京芸大に奇跡的に合格。けれどもこんな調子ですから、大学でも落ちこぼれの方です。
2年生の時には故大室勇一先生に指導を受けます。
日本で始めてサキソフォンで留学された方で、
正しいアーティキュレーションとフィンガリングを厳しく教えてくれました。
僕は今迄でこんな厳格なレッスンは後にも先にも受けたことはありません。
3年生になり日本クラシックサキソフォン界の父である故坂口新先生に師事しました。
この先生の人間的な温かさから来るその音楽性は至上のものです。
そばにいるだけで気持ちが優しくなってくるような先生でした。
いまだに先生のおっしゃった言葉を、新しい発見とともに
確認する毎日です。心から感謝してます。
もちろん僕はジャズがやりたいわけなのですが、
先生も若い頃有名ジャズバンドにいたこともあってレッスンはジャズの話も沢山してくれました。
特にジョニー・ホッジスの話が出ることは多く、
極端に柔らかいリードを使用していたことなどは何度も話してくださいました。
そのせいもあってか、僕今でも柔らかいリードを愛用しています。
新宿にあったライブハウス「サムライ」での演奏。
左は井上淑彦氏
1978年(21歳)~
4年生になり、将来ジャズの道に進むことを決した僕は
ニューヨークに行きたいと思うようになりました。
当時スモールグループで演奏する技量など全くなかったので、
ビッグバンドで資金を作ることを考えます。
あの頃は少し吹ければキャバレーのバンドでも大学の初任給以上のギャラが貰えたのです。
半年間学校の近くのキャバレーバンドで働き、
その後「チャーリー石黒と東京パンチョス」というバンドに入りました。
かなりいじめられました。
僕は特に年上の人から可愛がられるタイプではありませんでしたから・・・
やっとバンドにもなれてきた頃解散。この年芸大を卒業。つまり卒業と同時に失業ってワケです。
しかし運良く赤坂の「コパカバーナ」という店で、初めてリードアルトとして雇ってもらえました。
1980年(23歳)
「ダン池田とニューブリード」に入団。
ジャズバンドにしたいから若いジャズの好きなプレーヤーを集めている、
ということで期待して入ったのですがそうは美味しい話はありません。
殆どが歌謡曲のバックでテレビの収録。
入った月の11月はなんと一ヶ月で70本を超える仕事がありました。
サックスセクションには澤田一範(アルト)、
高橋康廣(テナー)など
現在もライブシーンで活躍しているプレーヤーがいました。
12時間も収録時間のある仕事の合間に
みんなジャズのフレーズを練習していました。
若いからできたんですよね。みんな20代だったし。
(右は澤田一範、
この頃から僕はフルートが苦手だった。
構え方を見てもわかります。)
少し考えをまとめてからまた書き綴ります。ここまで読んでいただいてありがとうございました。